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『ワンス・オン・ディス・アイランド ONCE ON THIS ISLAND』
『ハロー・アゲイン HELLO AGAIN』
『予告された殺人の記録 CHRONICLE OF A DEATH FORETOLD』
グラシエラ・ダニエル演出作品
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官能的で斬新な一連の野心作
ニューヨークのミュージカル・シーンで最も気になる演出家・振付家の 1人、グラシエラ・ダニエル Graciela Daniele。
彼女は、『ラグタイム RAGTIME』(振付)、『アニーよ銃をとれ! ANNIE GET YOUR GUN』(演出・振付)といったブロードウェイの大作で見事な手腕を発揮する一方、リンカーン・センターなどの非営利団体と組んで、独特なカラーの野心的ミュージカルを作り続けてきた。昨年暮れから今年の初めにかけてヴィヴィアン・ボーモント劇場で上演された『マリー・クリスティーン MARIE CHRISTINE』も、そうした後者の流れに属する作品の 1つだ。
ここでは、その『マリー・クリスティーン』観劇記の前哨戦として、ダニエル演出による野心的ミュージカルの系譜を、当時の観劇記で追ってみる(一部、そのままではわかりにくいところがあったので、言い換えたり削ったりしたが、大半は原文のまま。もちろん主旨そのものは全く変えていない。タイトルの下の日付は観劇日)。
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まずは、 91年 9月発送の「ゆけむり通信 Vol.8」(この辺の事情はこちらを)に書いた『ワンス・オン・ディス・アイランド』から。
僕がこの公演を観たブース劇場はオン・ブロードウェイの劇場だが、スタンリー・グリーン Stanley Green(増補ケイ・グリーン Kay Green)の「Broadway Musicals SHOW BY SHOW」によれば、元々は前年の 5月にオフのプレイライツ・ホライズンズ劇場で 3週間の限定公演を行なった作品で、それが好評だったのだろう、同年 10月からオンの劇場に移ってロングランを始めたようだ。
観劇記には書いていないが、この作品で僕は初めてグラシエラ・ダニエルという名前を知り、以来脳裏に刻み込まれて消えない。
なお、文中のマラヴォア、カリというのはバンドの名前です。
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『ワンス・オン・ディス・アイランド』
6/5, 7/20/1991
BOOTH THEATRE 222 W. 45th St.
小ぢんまりとした劇場で熱いステージを見せてくれたのが、『ワンス・オン・ディス・アイランド』。
場所はフランス領アンティル諸島のとある島。時はある嵐の夜。登場する 11人はオール黒人キャストで、The Storytellers とプレイビルには書いてある。嵐を怖がって泣いている子供に、島の人々が“ある女の子の恋の物語”を話して聞かせる、という設定だ。
そのお話は、表向きは人魚姫に似た悲恋物語だが、被抑圧者からの階級的視点も持っている。素晴らしいのは、生命力溢れるダンスと躍動的で豊かな音楽、そして、それらを見事に生かした、残酷さと温かさを併せ持った幻想的な演出。
ここでは特に音楽の話を。
ブロードウェイ・ミュージカルの音楽として異色なことは、バック・ミュージシャンの編成を見てもわかる。計 5人で、キーボード+ピアノ、キーボード、ベース、パーカッション、木管。奏でられるのは、パーカッションを強調したカリブ風ゴスペルといった趣のサウンドだ。舞台になったフランス領アンティル諸島と言えばマルティニークが思い浮かぶが、ここでの音楽は、マラヴォアやカリの音楽ともズークとも違う。むしろ、その南に位置するトリニダッド・トバゴのカリプソの要素が強い。
もちろんブロードウェイ伝統のオペレッタ的要素が下地になってはいるが、歌唱法は明らかにアフリカ的傾向を重視していてダイナミック。コーラスワークも魅力的。
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この作品、後に『楽園伝説』という、“なんだかなあ”なタイトルをつけられて日本で翻訳上演されたが、もちろん観ていない。
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続いては、リンカーン・センターの小劇場で上演された『ハロー・アゲイン』。 94年 2月発送の「ゆけむり通信 Vol.14」から。
これも限定公演だった。
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『ハロー・アゲイン』
1/4/1994
MITZI E. NEWHOUSE at LINCOLN CENTER
かなりセクシャルな動きを含んだモダン・バレエ的なダンスと歌による、オフ・ブロードェイならではの挑戦的なミュージカル。
演出・振付はグラシエラ・ダニエル。僕の観たものでは『ワンス・オン・ディス・アイランド』(演出・振付)、『グッバイ・ガール THE GOODBYE GIRL』(振付)を手がけた人。『ワンス・オン・ディス・アイランド』はとても好きだったミュージカルで、観た当時、 [生命力溢れるダンスと躍動的で豊かな音楽、そして、それらを見事に生かした、残酷さと温かさを併せ持った幻想的な演出] と感想を書いている。
『ハロー・アゲイン』は、その『ワンス・オン・ディス・アイランド』とはかなり趣の違う作品だが、演出や振付の底に、セクシャルな生命力、残酷さと温かさ、といった共通の印象を感じた。
ところで、この『ハロー・アゲイン』は、戯曲『輪舞 LA RONDE』に“suggested”されたミュージカルだ、とプレイビルに書いてある。
[汲めども尽きぬウィーン情緒のうちに、洒脱にして鋭利な諷刺の筆致を以て、性的欲望に操られる人間の生態を活写したシュニッツラー(Arthur Schnitzler)の名作] というのが、双葉十三郎が 50年版の映画化作品について語った時の、原作戯曲の説明(トパーズプレス刊「ぼくの採点表J」所収)。
さらにそこから引用すれば、この戯曲は [娼婦と兵隊――兵隊と小間使――小間使と若旦那――若旦那と若い人妻――若い人妻とその夫――夫とおぼこ娘――おぼこ娘と詩人――詩人と女優――女優と伯爵――伯爵と娼婦、と尻とり式に人物が連鎖して輪をなす十景から成立っている] という。
原作と同じく『ハロー・アゲイン』も“尻とり式”に“性的欲望に操られる人間の生態”が繰り広げられるのだが、マイケル・ジョン・ラチウザ Michael John LaChiusa(作曲・作詞・台本)は設定にいくつか変更を加えてある。
まず、人物設定が若干変わっている。小間使→看護婦、若旦那→学生、詩人→作家(脚本家)、伯爵→上院(貴族院)議員、と、この辺はまあ、やや現代的になっている程度でそれほど大きな違いではない。
最も違うのが、おぼこ娘→ The Young Thing。この The Young Thing というのがホモセクシャルの若者で、一般に英語でこう言うのかどうかわからないが、小学館のランダムハウス英和大辞典第2版の「thing」の項の 21には確かに [《米俗》ホモ] とある。この設定はかなり“今的”だ。
もう 1つ違うのが時代設定。と言っても単に時代を、例えば現代に、移してあるのではない。シーン毎に時代が変わるのだ。
「第 1景/娼婦と兵隊」がおよそ 1900年なら、「第 2景/兵隊と看護婦」は1940年代、「第 3景/看護婦と学生」は 1960年代、という風に。以下、最も新しい時代で 1980年代までの時代を行ったり来たりして、最後の第 10景は現在と過去が重なり合うという設定になる。
この時代設定の変更の狙いは、原作の香りを生かしつつ原作の面白さを現代へと繋げる、と同時に、時代は変わっても変わらない人間模様を描く、ということにあると思う。が、そうしたこと以上に、単純に“次の時代はどんな風に描かれるのか”という興味が湧くことが観客としては面白かった(それも狙いの内だと思う)。
というのも、同じ設定の人物が、次の時代では、似てはいるが違う人物になっていて、服装も時代を反映して微妙に違っていたりするからだ。例えば看護婦は、第 2景 40年代では純情な従軍看護婦だが、第 3景 60年代では看護婦スタイルのドライなコールガールで、ガーターが見えるようなミニスカートにハイヒールというスタイル。
細部まで凝った衣装は『ジェリーズ・ラスト・ジャム JELLY'S LAST JAM』のトニ・レズリー・ジェイムズ Toni-Leslie James。
実は、音楽のスタイルも時代設定に合わせて微妙に変わっていて、芸が細かい。
しかし、この新しい設定で素直にストレート・プレイにすれば、観客にとっては受け入れやすい、もしかしたらそこそこには当たる舞台になる可能性もあるところを、ユニークなスタイルのミュージカルにしてしまうあたり、製作サイドの人たちの志の高さを感じる。ヒットしてブロードウェイに移るというような作品ではないが、刺激的だった。
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最後は『予告された殺人の記録』。 95年 9月発送の「ゆけむり通信 Vol.19」から。
この作品はブロードウェイの劇場で上演されたが、体制はリンカーン・センターのプロデュース公演で、初めから限定公演として幕を開けた。
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『予告された殺人の記録』
6/20/1995
PLYMOUTH THEATRE 236W.45th St.
ガブリエル・ガルシア・マルケス Gabriel Garcia Marquez 作品のミュージカル化と聞くと、素材のユニークさで、すぐにマルケスと同じラテン・アメリカ出身の作家マヌエル・プイグ Manuel Puig の『蜘蛛女のキス KISS OF THE SPIDER WOMAN』が頭に浮かぶ。
原作や映画からは仕上がりの想像がつかなかった『蜘蛛女のキス』だが、僕らの前に姿を見せたのは実に斬新なミュージカルだった。それでも、そこはプロ中のプロ、ハロルド・プリンス Harold Prince の演出、いかに冒険的であってもブロードウェイ・ミュージカルの話法の範囲内にぎりぎり留まって、確実なヒットをも狙っていた。
『予告された殺人の記録』も『蜘蛛女のキス』同様、素人にはミュージカル化のイメージが見えてきにくい作品だが、出来上がってきたのは密度の高い素晴らしいダンス・ミュージカル。しかも、目前のヒットなど気にせず 2〜 3年後の優勝を目指して選手の個性を伸ばしている、という感じの、可能性にあふれた舞台だった。
男が殺された。なぜ? 時間を遡って殺人に到るまでの事情が語られる。そこには不可解で深い愛情のもつれがある――という物語が、ラテン・アメリカ色濃厚な楽曲とダンスによって、呪術的不吉さと官能的な香りを漂わせながら、さながら一つの祝祭の儀式の如く繰り広げられていく(休憩なしの全 1幕)。
ラテン・アメリカ色と言っても様々だが、楽曲(ボブ・テルソン Bob Telson)は、アフロ・キューバン、タンゴ、さらに(ラテンではあってもアメリカではないが)フラメンコ的な要素までも含んでいて、美しく、豊かな味わいがある。歌唱法も、楽曲の背景にある民族音楽の影響を受けて、プリミティヴな印象が強い。
ダンスも、タンゴやフラメンコの要素が強いが、音楽同様 1つの型にはまることなく、奔放。男たちが見せる地を這うような足捌きにはアフリカ的なものも感じさせる。ナイフやボトルを小道具に使う場面もありスリリングだが、大道芸的な華やかさからは遠い。と言うのも、儀式的色彩が濃いからだ。
そう。この舞台を [ダンス・ミュージカル] と呼んだのは、いくつかの見事なダンス・ナンバーがあるからだが、同時に、前述した通り全体が 1つの儀式のようであり、その儀式の中で全ての動きが舞踊的に演出されているように見えるからでもある。
考案・演出・振付はグラシエラ・ダニエル。 90年、オフからオンに進出した『ワンス・オン・ディス・アイランド』のカリブ海の呪術的寓話ミュージカルで成果を収め、オフに留まったが 94年『ハロー・アゲイン』でウィーンを舞台にした古い戯曲を今日的にアレンジ、モダン・バレエ的ダンス・ミュージカルにした野心作を世に問うた。『予告された殺人の記録』は、明らかに、その 2つのミュージカルの成果を踏まえて登場している。
この一連のダニエルによる野心的ミュージカルに共通の特徴は――、
- ダンスが定型的でなく感情を能弁に表現する
- 官能的で抽象性が高い
- 主人公1人を中心にした構成ではない
- ショウストッパーやハイライト・ナンバーといった発想が希薄
- そして、見え隠れする南米的要素。
――いずれもブロードウェイの観客にすんなりと受け入れられる要素ではない。かと言って狙いが見当外れかというとそうでもない。むしろ数年の後には大きな実を結ぶのではないかと思わせる充実感と説得力とがある。そして何より、その志の高さが素晴らしい。
深い暗さの中で幻想的効果を上げるライティング(ジュールズ・フィッシャー Jules Fisher +ビヴァリー・イモンズ Beverly Emmons)。くすんだ調子が美しい背景(クリストファー・バーレカ Christopher Barreca)。暗闇に溶け込むような渋い色調の衣装。一転して鮮やかな主要人物が象徴的に纏った純白の衣装、真紅の布(トニ・レズリー・ジェイムズ)。舞台の豊潤な空気を支えている、こうした要素も忘れがたい。
セットについては、舞台上に独立してありながら移動して背景の壁の一部として収まってしまう扉や、背景の右上方に左に 30度ほど傾いてある窓(開閉する)が後半ゆっくりと振り子のように左に振れてゆき今度は右に傾いて止まって開閉する、といった手品のような仕掛けが、ユニークなだけでなく不思議なムードのこの舞台に合っていて印象に残った。
野心とアイディアに満ちた『予告された殺人の記録』。ブロードウェイの未来へ向かうエネルギーが、ここにはある。
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余談だが、当初の予定通り、短期の限定公演としてロングラン公演に移ることなくクローズしたこの作品、驚いたことに、翌年発表の 95-96年シーズンのトニー賞ミュージカル作品賞にノミネートされた。
種明かしをすれば、『レント RENT』『ノイズ/ファンク NOISE/FUNK』の登場したこのシーズンは、トニー賞の委員が変革を意図したのか、『ヴィクター/ヴィクトリア VICTOR/VICTORIA』『ビッグ BIG』『ステート・フェア STATE FAIR』といった旧来のプロデューサーたちによる大型ミュージカルが作品賞に全くノミネートされず、発表前からトニー賞が大荒れになった(ノミネーションが自分の主演女優賞のみだった『ヴィクター/ヴィクトリア』のジュリー・アンドリューズ July Andrews が、抗議のためにマティネー公演のカーテンコールでノミネーション辞退を大々的に発表したのを記憶している人も多いと思う)。その間隙を縫って候補に挙がった、というような面はあったと思う。
しかし、質的に考えれば、『予告された殺人の記録』のノミネーションは少しも不思議ではない。むしろ、トニー賞が曲がり角を迎えたあのシーズンに登場したこと自体が、この作品の立場を象徴している気さえ、僕にはする。
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さて、こうやってグラシエラ・ダニエルの一連の野心的作品群を観てくると、彼女がやろうとしていることも自ずから見えてくる気がする。
ヒスパニックの血を引く彼女が見つめているのは、欧米の近代合理主義が置き去りにしていった、人間の中に太古から宿る、例えば情念とでも呼ぶべきようなもの。それを、説明したり解き明かしたりするのではなく、ダニエルは、歌と踊りによってもう 1度舞台上で呼び覚まそうとしている。僕にはそう思える。
それは、ミュージカルという表現行為がエネルギーを取り戻すための、先祖返りのようにも見える。
そうした一筋縄ではいかない舞台を、独りよがりにではなく、あくまでエンタテインメントの精神を忘れずに作り続ける彼女の才能と技術は、いくら賞賛されてもされすぎることはない。
グラシエラ・ダニエル。日本での知名度はけっして高くないが、ニューヨークでこの名前の絡んだ作品を見つけたら、とりあえず観ておくことをオススメしたい。
(2/7/2000)
Copyright ©2000 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi
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