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[ゆけむり通信Vol.29]
3/17/1998
『キャバレー CABARET』
生々しい MC が案内する幻のベルリン
初日を2日後に控えてのプレヴュー。話題作らしい期待感が客席から立ち上っている。
その一因は、作中のキャバレーの名に合わせてキット・カット・クラブと改名した劇場にある。元々はヘンリー・ミラーズという名の劇場で、それを近年はクラブ・エキスポというディスコとして使っていたらしいが、今回の上演にあたって改装が施され1階席ほぼ全部と2階席前方をテーブル席に変更、飲み物のオーダーが出来るという、ブロードウェイとしては異色のキャバレー劇場となっているのだ(内装・装置デザイン / ロバート・ブリル Robert Brill)。
幕がなく、メイン・ステージは客席に張り出しており、奥は2階建て構造。壁に覆われた1階部分には3つのドア。2階部分にはバンドが陣取り、その中央には傾いだ大きな額縁がかかっている。天井にはミラーボール。2階部分は左右のボックス席前まで廊下のように延びていて、両袖には1階に降りる螺旋階段がある。
そして開演前から、役者たちがウォームアップをするかのように、楽器を鳴らしたりストレッチしたりしながら舞台のあちこちを徘徊している。
MiL 発行の「New York Entertainment Calendar」の記事によれば、このキャバレー・スタイルの劇場で上演するために昨年秋のオープンをこの春まで延ばしたとか。満を持しての登場に、新しもの好きのニューヨーカーが盛り上がらないはずがない。
ところで、『キャバレー』のオリジナル舞台はブロードウェイ産(1966年)だが、今回のプロダクションは、製作こそラウンダバウト劇場ではあるものの、同じサム・メンデス Sam Mendes(『オリヴァー! OLIVER!』など)の演出による 93 年のロンドン上演版を元にしているらしい。
ロンドンでの上演場所はメンデスが芸術監督を務めるドマー・ウェアハウスという倉庫劇場で、僕は『ナイン NINE』をそこで観ているが、かなり小振りな小屋。したがって、今回の上演にあたっては、それなりの演出上の変更が加えられているとは思う。
が、基本的なテイストは小劇場的で、アクが強い(バンドのメンバーの大半が歌って踊って演技すること、早い話役者が演奏しているわけだが、そうしたことも小劇場的な印象――と言うか自由劇場的な印象――を与えている)。充実した舞台ではあるが、その辺が興行的にどう出るか。
舞台版『キャバレー』は、ボブ・フォッシー Bob Fosse による映画版とはストーリーがやや異なる。
1929年のベルリン。エキセントリックなバイ・セクシャル的メイクの MC の差配により、今宵もキャバレー、キット・カット・クラブの猥雑なショウが始まる。スターはイギリスから来た若い娘サリー・ボウルズ。
サリーと恋に落ちるのは、ベルリンにやって来たばかりのアメリカ人作家ブラッドショウ。
ブラッドショウが住処に定めた下宿の初老の女主人シュナイダーは、心優しいユダヤ人の商人シュルツと愛し合っている。
2組の幸せそうなカップルは、しかしナチズムの影によって引き裂かれていく。
女1人で生き延びることに汲々としてきたシュナイダーは、これまでの生活を守るために、排斥の標的にされたシュルツとの関係を絶つ決意をし、シュルツは1人去っていくことになる。
狂信的な民族主義の空気に恐れを抱いたブラッドショウは、妊娠したサリーを連れて故郷(ペンシルヴェニアだっけか?)に帰ろうとするが、ベルリンでの刹那的な生き方しかできなくなっているサリーは、堕胎してキャバレーに戻る。
『キャバレー』は“反ナチ”のイデオロギーを底流に持つシリアスなメロドラマだ。
一方、黒っぽい衣装と言い、ほとんど転換のない装置と言い、観た目の印象がよく似ている(衣装は共に巨匠ウィリアム・アイヴィ・ロング William Ivey Long)、同じジョン・カンダー&フレッド・エブ John Kander & Fred Ebb (作曲・作詞)のリヴァイヴァル『シカゴ CHICAGO』は、狂騒的なファルス。
両作品はオリジナルからして、退廃的な気分、古いジャズ的な楽曲アレンジ、MC による舞台進行という形式など共通点が多いと指摘されていた。経緯から言って、映画版『キャバレー』を手がけたボブ・フォッシーが『シカゴ』を作る時に影響を受けたと考えるのが自然なのだろうが、今回こうして同じ時代に似た意匠でリヴァイヴァルしてみると、体質の違いがよく見える。
面白いと思うのは、楽曲をクルト・ヴァイル作品に似せて作ったと言われる『キャバレー』より『シカゴ』の方が、ヴァイルの代表作『三文オペラ THE THREEPENNY OPERA』に似ていることだ。
欲望を丸出しにした強烈なキャラクター、ナンセンスとも思えるストーリー、コミカルな表情の下に潜む悪意。後の2作品には開き直ったようなしぶとさがある。
それに比べれば、『キャバレー』はマジメに見える。それは、ナチズムという具体的な敵を想定しているからではないか。そのせいで作品が広がりを失っていないか。
もちろん、『キャバレー』が平板な“反ナチ”ミュージカルであるはずもない。無関係に見えるキット・カット・クラブの自暴自棄の香りを漂わせた華やかなショウと淡々とした市井の人々の人生とが、やがてフラッシュバックのように交錯し始め、最後には大きな渦に巻き込まれるように見分けがつかなくなるという構成が素晴らしく、ナチズムの描き方自体もむしろ静かで、それが一層不安感を煽って効果的。
ではあるが、98年のブロードウェイにあってはナチズムが半ば記号化しているようにも僕には見えた。マジメであるだけに、この作品が風化していくとすればその部分からなのかもしれない、そう思った。
楽曲はオリジナル舞台版と映画版とを合わせて使ってある。例えば映画版でライザ・ミネリ Liza Minnelli が歌って有名な「Maybe This Time」などはオリジナル舞台版にはなかった。
この作品で最も有名な楽曲はタイトル曲だと思うが、僕は、開幕してすぐにシュナイダー(オリジナルではロッテ・レーニャ Lotte Renya)が歌う「So What」が、全体の気分を決定していて重要だと思う。
役者では、ロンドン版にも出演したという MC 役のアラン・カミング Alan Cumming が強烈な印象。生々しく、血の香りすらしそう。
ニューヨーク・タイムズの初日評で絶賛されたサリー役ナターシャ・リチャードソン Natasha Richardson は不安定なキャラクターをよく演じていたが、歌は僕には魅力に乏しく感じられた。
むしろよかったのは、老カップルを演じたメアリー・ルイーズ・ウィルソン Mary Louise Wilson とロン・リフキン Ron Rifkin の2人。特にシュナイダー役のウィルソンは歌にも深みがあり、ロッテ・レーニャとはタイプが違うが強い存在感を示した。
ロブ・マーシャル Rob Marshall の振付は、どうしても僕の中で『シカゴ』と比べて観る部分があって、可もなく不可もなしの印象。
最後に、特に印象に残ったシーンを1つ。
ユダヤ人排斥の声が高まる中、シュナイダーがシュルツの店を訪れる。シュルツの店であることを示すのは、大きな額をショウウィンドウに見立ててはめ込んである店名の入ったガラス。静かに話をしている老カップルの間に MC が現れ、無表情のまま手に持っていたレンガを床にドーンと落とす。その瞬間、ガシャン!という音と共にガラスが額からズレ落ちる。
おわかりだと思うが、レンガが外から投げ込まれたことをひねって表現しているわけだ。
このシーンのアイディアに比べると、ラストの装置によるケレンは(明かしませんが)、過去に観たことがある手法なので衝撃は薄かった。
(4/4/1998)
次回の観劇記は、こちらをご覧ください。
Copyright ©1998 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi
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